諦念
諦めることが出来るのは幸せである。
そもそも、望まなければ諦めるということが選択肢に入ることはない。脚がない人間でもサッカーをやろうと思わなければ、それはただ人生の中で触れなかった事柄その1でしかない。
裏を返せば、望むことを選べるそれ自体が幸福だ。人間は経験したことがないものを全く想像出来ない。想像して求めた上で叶うことがないものが諦めたことであり、想像出来るということは一片でもそれに触れたことがあるということだ。
強欲に生きるべきではない。諦められる幸運を祝い、一瞬でも望めた奇跡を崇めるべきである。
無為自然
物事はあるがままにしかならんということ。最近気付いた。
感情はものごとを受け入れるためのプロセスでしかない。どんなに泣いても死んだ人は帰ってこないし、どんなに怒ってもミスは取り返せないし、どんなに笑っても面白いことそれ自体に変化は生まれない。
何をどう考えようがどう行動してみようが何も変わらない。変わったのだとすればそれが元からそういうものであったように変わっただけか、元からそうであったか。あるいは自分が変わったと信じていたいだけかである。
これを拡張して自分の心にまで適用すれば、無敵に近い状態になることができる。
悲しいとき、むなしいとき、死にたいとき。全てそういうものである自分の感情がものごとに影響されて自らの内に生じただけで、すべてそこにあるだけである。そういうのもあるんだな、自分は今こういう気持ちなんだな、と自分の芯と心を切り分けて認知すること。つまりメタ認知。
逆に言えば、人は人を救えないという話でもある。人間の感情は全て彼らの内に完結したもので、干渉できたとしても完全なものは不可能である。それが自分の内にあって、何が原因で実はどうしたいのかということの手助けをするのが関の山だ。これがカウンセラーという仕事であるのだが。
仕事で金をもらってするのでなければ、人助けは損でしかない。真面目で、優しくて、良い人で、苦労していて、自分を殺すことが出来る人ほど、溝に落ちている。泥の味を知っている。誰にも引っ張り上げられず、自分で這い上がった苦労を知っている。そして、それらしか知ることが出来ないようになっている。自らの成長が自らを苛む前に、病む前に、悩ましい人とものごとに中指を立てて、唾を吐きかけ、足蹴にしなければならない。
善さ
真面目な人、自立した人、良い人、優しい人。これらに共通するものは、「善さ」という不明瞭なものを手に入れる代償として、人生を賭して損をしていることだ。
真面目な人は不真面目な人のケツを拭くことが仕事であるし、自立した人は自立できていない人の支えになることが仕事である。残り二つも然り。
一見すると損だけを手に入れている滑稽な人種であるが、どうも人間として「善い」と言われるのは損をする人種の方である。
おんぶにだっこの幼稚な人間、中年になっても親のすねをかじるニート、某サイトで漫画を読み漁り、YouTubeで音楽を手に入れる高校生。彼らは明確に物理的、経済的な利益を得ている。
これを叩く論調の基盤が「善さ」であり、それを振りかざす彼らは「他者のために頑張って不利益を被ろう」と自分が叫んでることに気付いているのだろうか。
倫理も道徳ももはや通じない人間の方が多い時代である。なぜなら損しかしないから。グレーゾーンで甘い汁をすすり、明るいところでは脚を引っ張り合って泥まみれになるのがこの国の正しい生き方なのだろう。素晴らしきかな人間。
無関心
全てに対して無関心であることこそ最大の平等ではないのか。
「知らんけど」という関西弁はネタにされがちだけれど至極全うなものであると感じる。本当に「知っている」ことなど人間にあろうはずもない。
理解しようと努める姿勢は肝要だが、入れ込みすぎればバイアスにまみれ、同情と共感の海におぼれて目指すところから離れてしまう。
わからないものに対して距離を置き、そういう文化であると肯定も否定もしない態度こそが共感である。平等とは主観を排除した第三者であることであり、ならばただ共感に努めることが平等だ。
「話せば分かる」馬鹿を言え。話してもわからないことしか世界には存在しない。分かるならばそれは自明の理であるし、分からないからこそ話さなくてはならない。そしてそれは理解の及ぶ範疇のものではない。話さなくてはならないことは相手に理解されないことが前提である。何もかもに対して「知らんけど」とする姿勢は隣人に対する愛よりも平等だ。
自由
平等とリベラルについて。
平等ー人間は,人種,信条,性別,門地・社会的身分などの違いにかかわりなく,個人相互の間において,人間としての価値に差異はないという思想。
リベラルー 因習などにとらわれないさま。自由主義。
この二つは人間がしばしば目指すところであると同時に、画一的に考えることができないものである。絶対に。
以前「LGBT専用トイレ」なるものが設置されたニュースを聞いたとき、私はなんとバカらしい、まるで配慮が足りていない唾棄すべきものだと思った。別に男女兼用を増やせばいいだけではなかったのか、性別のくくりを気にするならば「だれでも」とでもつければいい。
しかし、製作者の意図を推測するなら、男性用だから「男性用トイレ」で、女性用だから「女性用トイレ」なわけであり、ならばLGBT用は「LGBT用トイレ」なのだろう。なるほど。一理無いこともない。というか筋は通っているし、ヘテロセクシャルとしてジェンダーのことに何も触れずに生きてきたならば当然の考えのような気もする。
理由は後述するが、前者の私の考えがリベラルであると言うつもりは毛頭ない。後者の考え(本当にこの通りかはまるで定かではない)は『平等』と言えるだろう。性別の違いによって人間の価値に差異はなく、同じとして扱っている。
それでも私が何か違和感を感じずにはいられないのは、LGBTという言葉それ自体が男と女の二極からの排斥として感じられるからなのだろうか。きっとこれを排斥と感じるヘテロがいるように、これを排斥と感じないホモがいるのだろう。
平等に考えるならば、LGBTという言葉もヘテロセクシャルの男女以外という状態を指しているに過ぎない。単なる名詞に対してこんなに振り回されているのも滑稽である。
そもそも、マジョリティがピーマン好きな世界で、パプリカ好きが偶然マイノリティだった程度の話である。パプリカ好きで起こる現実的な損害があるとすれば、子どもができないことくらいであるし、別にピーマンが好きでもできないことはあるし、嗜好の問題でしかないはずだ。
隣に住むあいつが何を食べようがどう生きようが関係ない、というスタンスこそが平等でリベラルなのではないか。しかし興味を持って考えてしまった瞬間に、人生経験というバイアスにまみれて、文章という媒体に吐き出してしまった時点でもう本来思っていたところからは遥か彼方である。リベラルであろう、平等であろうとすることはもはや人間には一生出来ない。「絶対」も「一生」も薄汚い諦念にまみれたバイアスを表すのには丁度ふさわしいだろう。