三角コーナー

キッチンシンクに思想は流せないからな

憧化

 巷で話題のあの映画のお話。泣きっ面に蜂が2度来たと思ったら3度目がスズメバチだったらそれはもはや喜劇だろうか。

 

 考えさせられるだとか、誰しもが彼になりえるなどといった感想を目にするたびに失笑してしまう。どん底にいてなお、自らにまだ下はあると言い聞かせ、世界を信じたうえでその全てに裏切られる痛みを知っているものがそこら中にいてたまるか。仮にそうならば私はもっと生きやすかった。

 

 あれは一人の善良な人間が狂っていく様では断じて無い。全てを抑圧の中にしまい込んできた人間の、思い込みで作り上げた世界への幻想が剥がれ、正気に返っていく様だ。むかつく奴なんか全員殺してやりたいと思うし、裏切ってきた人間は肉親であれ自らが手を下したいのが人間の本性だ。倫理やら道徳やら法律やらで捻り潰された、傷を負った人間の心の底に燃える怒りと悲しみの混じる慟哭こそあの笑いに他ならない。そこに善悪などなく、望む行為を行った結果がたまたま世間的には悪であっただけである。自らのみが持ち得る物差しを手に入れると、善悪の概念の前に自分がやりたいかやりたくないかが優先される。

 

 だからこそ、羨ましい。行き当たりばったりで自分に危害を加えてきた人間に打ち込む銃弾を、拳銃を、過去の私は持ちえなかった。持っていたら間違いなく引き金を引けたのに。彼に自己を投影して、気持ちよく映画を視聴出来る人間ならば、最後の「理解できないさ」というセリフは彼の生きた世界と我々の生きた世界に突き刺さる珠玉の一言である。苦しみぬいた末に我に返り、したいようにやってみた。それが妄想かも現実かも分からないが、そうだったらすっきりするし愉快だを詰め込んだカタルシスの物語。思わず笑顔が零れるほどに素晴らしいが、きっと痛みを知らぬ人間には「理解できない」のだ。