三角コーナー

キッチンシンクに思想は流せないからな

生期

 人は過去にしか生きることが出来ないと思っている。此岸に生を受けたまさにその瞬間から、彼岸を見つめねばならないのが人間という生物であるし、最初から終わりが見えている生物が見ることが出来るのは過去でしかないと思う。現在進行形、未来形、さまざまな生き方があるとは思うし否定するつもりもないが、少なくとも私はそうだ。

 

 こんな考え方になったのは12年前、言葉の意味からは外れるけれどまさに半生のあたりだ。今にして思い返しても酷いが、当時の私は世界に裏切られたと思ったし、おそらくその感想に間違いはない。少年にとって世界とは学校と家庭の二つ以外存在しない。

 

 当時、紛れもない終わりを見た。最後ではなく最期だ。これでも死ねる、これでも死ねる。高くても、硬くても、早くても、重くても。人間の肉体にとって死は余りにも身近に存在していることに気付くと同時に、こんな安っぽいもので終わりたくはないと思った。本音は死ぬのが文字通りに死ぬほど怖かっただけだ。

 

 あれから半生、死を見つめて生きてはみたものの案外死ぬ理由も手段も変わらず安っぽい。それも当然、死のうとしても死んでもどうせ特別な変わりはなく、世はこともなし。ロアナプラでワンカットで失われる命よりも長く生きなければならないことだけはどうやら確かだった。

 

 あの日、負けず嫌いとアドバンテージの概念だけで選んだ命は正しかったのだろうか。集合的無意識などあまり信じてはいないが、仏陀とキリストが至った先が同じということには信仰を捧げても良い。電車に轢かれたカエルを見たわけでも、死後の人生の公園で新しい靴を奪われたわけでもないが、不思議と命がないと出来ない行動を選ぶ。文学から引用するのも、芸術を観るのも、あろうことか命を育ててしまっていることも生きていなければ出来ない。文章を書くことも然りだ。

 

 文章を書くという行為にはその人間の人生が垣間見える。それが名著であれ、小さなゴミ箱であれ。言語化して初めて分かることもあるのだろうが、どうやらこの人間はまだ死ぬつもりがないらしい。終わりを見据えて、死のうとしてなお命が無ければと未練たらしく言葉を紡いでいる。もう少し、生きていよう。