三角コーナー

キッチンシンクに思想は流せないからな

血意

 優しさが温かいと表現されるのはそれが血に纏わるからという話。

 やさしいひとになりたい等と思ったのはいつの話だっただろうか。昔から好きな歌を作るあの人はやさしくなれたのだろうか。
優しさとは血そのものである。概して誰かに対する温情であったり、赦しであったり、慈しみであったりという穏やかなイメージのある感情だが、対照に身を裂かねばひねり出せない感情でもある。

 ふと人に優しく、自分の苦労を無視していた時期を思い出した。優しくあろうとするために、私は自らの首を縊り続けた。そして噴き出た血液を浴びた彼女に「あなたは強いから、優しいから」と宣われて、ついに背中を突き刺されたのだった。教訓にするには救いが無さすぎる、運が悪かっただけの出来事。

 一般的に使われる強さも優しさも、所詮その人の耐久値を評価しているに過ぎない。痛みに耐えられるだけの防御力を身に着けたか、痛みを感じないほどの体力を身に着けたか。着けたというより着けざるを得なかったという言葉の方が正しいが、いずれにせよ血を流した結果だ。生きるためではなく、死なないために流した血も、決意も、陳腐で小綺麗な言葉に変換されて理解されようとするのならば、わが身の内に秘めておくべきなのだろう。

 だが、絶対に血を流した事実も、痛みも、風化させてはならない。電子の海の藻屑でしかないこの文章は、私の唾棄すべき人生の路傍の意思だ。何も持ち得なくともこれだけは、抱えて来たのだ。