三角コーナー

キッチンシンクに思想は流せないからな

自由

平等とリベラルについて。

 

平等ー人間は,人種,信条,性別,門地・社会的身分などの違いにかかわりなく,個人相互の間において,人間としての価値に差異はないという思想。

 

リベラルー 因習などにとらわれないさま。自由主義

 

 この二つは人間がしばしば目指すところであると同時に、画一的に考えることができないものである。絶対に。

 

以前「LGBT専用トイレ」なるものが設置されたニュースを聞いたとき、私はなんとバカらしい、まるで配慮が足りていない唾棄すべきものだと思った。別に男女兼用を増やせばいいだけではなかったのか、性別のくくりを気にするならば「だれでも」とでもつければいい。

 

しかし、製作者の意図を推測するなら、男性用だから「男性用トイレ」で、女性用だから「女性用トイレ」なわけであり、ならばLGBT用は「LGBT用トイレ」なのだろう。なるほど。一理無いこともない。というか筋は通っているし、ヘテロセクシャルとしてジェンダーのことに何も触れずに生きてきたならば当然の考えのような気もする。

 

理由は後述するが、前者の私の考えがリベラルであると言うつもりは毛頭ない。後者の考え(本当にこの通りかはまるで定かではない)は『平等』と言えるだろう。性別の違いによって人間の価値に差異はなく、同じとして扱っている。

 

それでも私が何か違和感を感じずにはいられないのは、LGBTという言葉それ自体が男と女の二極からの排斥として感じられるからなのだろうか。きっとこれを排斥と感じるヘテロがいるように、これを排斥と感じないホモがいるのだろう。

 

平等に考えるならば、LGBTという言葉もヘテロセクシャルの男女以外という状態を指しているに過ぎない。単なる名詞に対してこんなに振り回されているのも滑稽である。

 

そもそも、マジョリティがピーマン好きな世界で、パプリカ好きが偶然マイノリティだった程度の話である。パプリカ好きで起こる現実的な損害があるとすれば、子どもができないことくらいであるし、別にピーマンが好きでもできないことはあるし、嗜好の問題でしかないはずだ。

 

隣に住むあいつが何を食べようがどう生きようが関係ない、というスタンスこそが平等でリベラルなのではないか。しかし興味を持って考えてしまった瞬間に、人生経験というバイアスにまみれて、文章という媒体に吐き出してしまった時点でもう本来思っていたところからは遥か彼方である。リベラルであろう、平等であろうとすることはもはや人間には一生出来ない。「絶対」も「一生」も薄汚い諦念にまみれたバイアスを表すのには丁度ふさわしいだろう。